木への渇望感がそこにあった
- 2017/1/13

“頭よりも自分の手を信じた方が良いこともある”
我が家には木で出来たモノが多い。
こんなブログを書くぐらいですから家にある電動工具の数も一般の家庭よりは多いと思います。
そして「あーでもない、こーでもない」と頭を捻りながら工作していく訳ですから、木工品がどんどん増えていきます。
しかし、これは結果としてなりゆきで増えたモノなのかなと言うと実はそうでもないことが分かってきました。たまにふと自問してみるんです。「これは単なる“なりゆき”なのか?」って‥
すると心の中に一つの衝動があって、それを中心に広がって今に至ってるんですね。
“木への渇望感”
大人になって家をローンで購入した時に湧いた感情です。親元にいるときには無かった感情。
何でも自分で思い通りになるわけではありませんが、どの様にこの家に住みたいのかと考えた時に“手”で家に触れてみて気付いたんです。
木が無いなと‥
木造住宅なので柱なんかには使われているのですが、直接肌に触れる事ができる箇所には木がない。
壁紙でおおわれた何もない空間にポツンと裸足で立ってみる。床は一見木に見える。しかしフローリングがつるつるしているのはコーティングされているからだ。木肌のあの感じはない。壁紙は真っ白で綺麗だったが、ビニールクロスだ。
家を購入したという高揚感の脇で同時に起こった何とも言えない虚脱感。
しかし今なら何にもないこの空間に何でも置ける。
叩けばコンコンと音のする木の何かを置きたい。
机でも棚でも何でも良いが、ウレタンコーティングされた様なモノではなくて、木が直接肌に触れられるモノが良い。
売ってるのか?
しかし、近所を探し回っても都会に物色しに行ってもそんなものはどこにもなかった。商品として並んでいる規格品を眺めていて思った。
“自分で作った方が早い。”
驚くべき事に“木への渇きとも言える衝動”が私から市販品で満足するという選択肢を排除したのです。
何かを棄てるということは、代わりに何かをそこに填める事が出来るということです。
市販品を諦めた時に、頭で心配する私をよそに私の“手”が語りかけてきました。「任せろ」と。その時私は頭ではなく自分の手を信じました。
今から思えばあの時はどうにかしていたと思うが、分からないながらガンガン攻めていたら結果として色々出来てしまった。洗練されたデザインなんてものは無かったが、武骨でも自分で作った木工作品はかわいかった。
随分と好きにやらかしたものです。