つまらない世の中だろうが、ただあなたが面白おかしく生きていればそれでいいんじゃない?「勝手にしやがれ」の精神
- 2017/1/31

うちの娘はひたすら元気です。
最近驚いたのがスーパーのレジ袋に紐を結び付けたモノを凧上げと称し、笑顔で元気に走り回っていたことです。
どうやら幼稚園で作ったみたいなのですが、娘はとにかく見た目ゴミのような凧(タコ)が大のお気に入り
もちろん本物の凧ではないので空高く舞い上がる訳でも何でもない。大人から見ればたいして面白そうなものでも何でもないのですが、まぁキャッキャと嬉しそうにしていました。
そんな姿を見ていますと、彼女にとって“つまらないもの”など世の中になく、全て輝いているといった様に見えました‥
まさに、子供の可能性は無限大‥
などと月並みな感想を抱いていたさなか、コレって自分に置き換えて考えてみたらどうなるんだろうなという思いが頭の隅をかすめました。
別にスーパーのレジ袋で大の大人がキャッキャと騒ぐことが出来るかどうかという話ではないのですが‥
他人から見て、何の面白味も無いような状況で自分自身が楽しめるかどうかということで、結論としてはなかなか出来なくなってきているなーと思ったのです。
ふとですが、いつか誰かから言われたことを思い出します。
「つまらない世の中でただあなたが面白おかしく生きていればそれでいいんじゃない?“勝手にしやがれ”って思うよ‥」
今思い返しても金言だなと思います。
この言葉を聞くとつくづく面白おかしく生きるっていうのは誰かから与えられるモノでもないなーと感じます。その時代その環境でそれぞれが楽しさを見付けて勝手に過ごせばいいんだなと‥
例えば誰かが「面白い世の中を作ってあげるから、あなたはその中で面白おかしく過ごして下さい。」と言われたら私はたぶん何らかの違和感を感じるのです。
「誰かが作るものなの?」それって‥
しかしそれを望んでしまう人または押し付けてしまう人というのは世の中に多くいる様な気がして、まあ大きなお世話なんですけれども、そういった人は楽しさだとか幸せだとかは誰かから与えられるモノだと思い込んでしまっているのかもしれない。
どう考えようがそれも人の勝手なのですが、
しかしながら、そういった人はいざ状況が立ち居かなくなった場合どうなるのかな?原因の全てを自分以外の何かに転嫁してしまわなければ良いのですが‥
実はこう書いている私であっても見えなくなってしまう時があって、そんなときには全く見えない‥
今回の凧(タコ)にしてもそうです。心のどこかでかわいい絵柄の凧を与えてあげようという気持ちがあるから、ひも付きのビニール袋で子供が喜ぶ姿にちょっとした驚きが起こるんですよね‥
大人って傲慢っちゃあ傲慢なのかもね
こっちが押し付けなくても子供は勝手に楽しむのです。楽しいことを見付けるのが得意な訳ですからね。
だから無理に子供を楽しませてあげようと思わないのも時には必要ですよね。
何だか本質的な事が自分の中で見失った時、そんなときには外に目を向けるのが良いですよね。
今回なんかは娘がレジ袋で遊ぶ姿を眺めることで自分をかえりみているのです。
いつか言ったかもしれませんが、自分の心の奥底を眺めようとするならば考え込むよりも視線を外に向けることの方が有効ですよね。
しかし、かれこれ一時間ぐらい走り回っているなー
娘よ、元気すぎやしないか、お父さんは少し疲れてきたよ