3歳までの記憶
- 2016/12/6

自身がどんな赤ちゃんであったのか?
曖昧な記憶も無ければ断片的な記憶もない。痕跡としてはアルバムの写真なんかは残っているのですが、“それってその赤ちゃんの全てじゃないよね”という想いが仄かに心をかすめます。
運良く子供に恵まれたからこそ抱いた想いなのですが、兎にも角にも赤ちゃんと言うのは手がかかります。よく二人目の子供はアルバムの写真が少なくなるとか言われますが、それって愛情が薄れるからでは無いですよね。きっと純粋に余裕がなくなるから。目が離せない上の子を世話しながらですからね、シャッターチャンスは必然と少なくなります。
だから本当に赤ちゃんの時にどんな様子で親と接していたのかですとか、どんな時に不機嫌になって親を困らせたのかはよく見えないのですね。
ただ親の淡い想い出の中にだけ本当の赤ちゃん時代の私がいるのです。自分の過去でありながら何だか自分のものではない、赤ちゃんとはそんな不思議なものなのだとようやく思い至りました。
自分の子を眺めていると、それぞれ性格が違います。三つ子の魂百までなんて言いますが、本当はもっと早い段階で性格や人格というものは形作られているんじゃないかと思います。
親がどう接するかで子供の性格や人格は決まってくるって聞いていましたので、産まれた当初は内心ヒヤヒヤしていましたが、今その立場にたってみるとそれはとんだ傲慢だったなと気付かされました。
日々仕事と子育てにドタバタと追われる我が家、抱いていると温かい気持ちにもなりますが、着ている服は赤ちゃんの鼻水やらなんやでカッピカピであります。
決して綺麗なものではない‥
うんちが出ないとなれば心配し、出たら出たでスッキリしたのか笑顔でキャッキャと笑う息子を見るにつけても安心しながらも「なに笑てんねん」と内心毒づいているのも紛れもない事実であります。
そんな日常でありますから赤ちゃんの成長をコントロールしようだなんてトンでもないことなのです。
でもね母親なんかは特にそうですが、子供の変化にはとても敏感に反応します。“ちょっと調子が悪いのかな”だとか“この子嘘ついてるな”なんていう微妙な変化は瞬時に感じ取ります。言葉は喋れなくても子供だって嘘はつくのです。
だから自分よりも先に自分の変化に気付くのは母親なのです。父親はその辺りはどうも鈍感ですけどね。
結構世の中には自分の母親がどうも苦手だと思っている人が多分にいるような気がしますが、この辺りの母親としての敏感さが起因しているような気がしなくともない。その存在だけで「世間様は騙せても母親は騙せないからね」と暗に迫られている様な圧迫感を感じるのかも知れませんね。
そんな親とて完璧ではありませんが、“自分の記憶のない空白の3年間”を知っているというのは子供の立場からすると非常に厄介です。頭を下げ続けるしかできませんから。しかしそれは本当は有難いことなのかもしれないとも最近は思い始めています。
私なんかは大人になれば自分の好きなように出来ると思っていた若僧でしたが、運良く現代社会を生き延びるにつれて、大人になればなる程、本当は頭が上がらない人が増えてくるという奇妙な現実にただただ打ちひしがれています。
“親には何だか分からないけど頭が上がらない”とその時点で一回頭を打ってる。そのおかげでこんな奇妙な現実を受け入れていられる。これまた何だか分からないけど有難い気もするのですよ。
今日は12月の6日、実は私の母が産まれた日なのであります。そういやうちの母親も祖母には頭が上がっていない様な気がするな。何にせよ「おめでとう」と朝にメールを入れておいた。