犬が吠えた日

  • 2018/4/8

パスワードを忘れてWebサービスにログインできない。

よくある話だと思います。

まず どうしようもないですから新しいパスワードを登録し直そうとするのですが、その為には本人確認のための”秘密の質問”に答えなければならなかったりします。

しかし、当人としては それすらも忘れてしまっていますから、当てずっぽうで色々答えていきまして、諦めた頃に正解にたどり着くことがありまして、その正解が”昔飼っていた犬の名前”だったりするから驚くことがあります。

何を驚くのかって犬も亡くなって10年も経つと思い出す機会がこれだけ少なくなってしまうという事実を思いもしない所で突き付けられてしまうこともさながら、今は亡き犬が錯覚とは言え、本人確認の為に秘密の鍵になって ずっと待っていてくれた様な気にさせられたからです。

ここまで書いて 自分自身で随分とご都合主義的な薄情な人間だと思い知らされます。

「亡くなった時にあんなに悲しんだではないか?!それを今の今まで忘れておいて感傷に浸ることもあるまい。」と

しかし ここでハタと思い直します。

思い出す機会が減ったというだけで今も名前は覚えているし、何だったら雨に濡れた時のクサいニオイだって頭の片隅に残っています。だから記憶から完全に消えているという訳ではないのです。

繰り返しますが、ただただ 思い出す機会が減っている。

不思議な気持ちでした。記憶は確かにあるのに、日々の暮らしの中で犬との生活は なかったかの様に生きている自分がいることを知る。


かの犬をいつから飼っていたかは記憶は定かではありませんが、我が家に来た日の事は覚えています。学校から帰宅すると玄関に見知らぬ仔犬が一匹 丸くなって寝ていましたから。

私は母親に「どこの家の犬を預かったん?」と訊ねました。きっとどこかの家族が旅行か何かに行く間 しばらく我が家で預かってくれと頼んできたのだろうと想像していたからです。

母はバツの悪そうな顔をしたかと思えば、いきなりニヤリと笑い、ポツポツと長い経緯(いきさつ)を話し始めました。長過ぎてよく覚えていませんが、どうやら我が家でその仔犬を飼うことになったらしいという事だけは理解できました。

そして犬は○○○○と名付けられました。名前は伏せておきます。何故ならまた何かのキーワードとして記憶にない所で使用されている可能性があるからです。

だからこれからもここでは犬と呼ぶことにします。


犬は10年以上 生きました。

玄関で寝ていた仔犬は程なく、庭先の犬小屋に寝床を移し、よく吠える番犬として活躍しました。顔見知りになると吠えなくなる犬でしたが、なぜだか贔屓にしているクリーニング屋のオジサンにだけは最後まで吠え続けていました。理由は今も謎です。

カミナリが大の苦手でゴロゴロ空が唸り声をあげている日だけは特別に玄関に入れてあげていました。下駄箱の下から鼻だけを覗かせて尻尾をまいてビクビクしている光景は何だか可愛らしかったのを覚えています。

私が高校から帰宅した折に犬小屋を覗くと素っ気ないくせに、無口な父が夜遅く帰宅すると家族の誰よりも喜びを表現しました。憎たらしい犬です。

やがて私は大学生活を送る為、家を離れ学生寮暮らしを始めましたが、犬はずっと実家の犬小屋で呑気に番犬をしておりました。

そこからさらに数年が経ち、私が社会人になる頃には茶色い毛並みに白髪が混じる老犬となっていました。


ある日、無口な父が珍しくボソッと 口を開きました。「後ろ脚の元気がない、、」と

よく喋る母と反比例するが如く、ほとんど喋らない父が何だか要領を得ない言葉を発しましたので、どういう事なのかと会話してみると、

どうやら犬が散歩の時に公園の階段を駆け上がらなくなった事を気に掛けている様でした。

私はそりゃ白髪混じりの老犬だし、いつまでもピョンピョン跳びはねる様に散歩する訳でもないだろうと心を誤魔化しましたが、父はそういった様子も見せず、ただただ犬を撫でていました。喋らないので何を考えていたのかは不明です。

程なくして犬の首元にコブの様なモノができて、動物病院で診察してもらうことになり、それが白血病からくる症状の一つであることを我々家族は知ります。

犬は痛いとは言わない。こちらの心配を余所にむしろ静かに佇む姿は病持ちとは分からないぐらいに穏やかでした。


時を同じくして私はその頃 転職活動をしていました。前職を完全に辞めてからの活動でしたので、面接を受けに行ったりエントリーシートを書いたりしているとき以外はヒマというか穏やかな日々が続きました。

数字に追われることもなく、昼ドラを観つつ煎餅(せんべい)をポリポリと噛じるという幸せな毎日の連続でした。

幸せ過ぎてこのまま家に引き篭もってしまうことも考えましたが、犬を散歩に連れて行くという重大な任務が私にその選択肢を許しませんでした。

あの時の私はあまり歩かなくなった犬と立ち止まりながらちょっとずつ散歩することで外の空気をようやく吸える つまらない人間でした。

ゆったりとしたペースの散歩は息抜きにちょうど良かった。ただこちらのペースも関係なくロープを引きちぎるぐらいの勢いでグイグイ散歩していた犬の姿を覚えているだけにそのペースに ちょっと物悲しい気持ちにもなったことは確かです。

そんな時は仔犬の時の散歩もこんな感じだったなと思い直すことにしていました。仔犬もよちよち歩きの時は本当にすぐに休むのです。

詰まろうが詰まらなかろうが時は過ぎ、季節は移ろいます。

むせ返るような夏の暑さがおさまると、朝晩は急に冷え込む季節が始まります。

夜の間は犬を犬小屋から移動させ、玄関で寝かせることになりました。この家に来た時、玄関で丸くなっていた小さな仔犬は、老犬となってまたこの玄関に帰って来たのです。


かの犬は誇り高い犬で たとえ病で伏せていようと、何かあると玄関で吠えました。別に不審者に目を光らせているとかいう格好良い理由でもなくて、オシッコやウンチがしたくなったらこちらに吠えてお知らせしてくれるというだけなのですが、何せ誇り高い犬でしたので、玄関での粗相は彼にとっては決して許されないことだったのです。

今 彼と言いましたが、今更ながら かの犬はオス犬だったことをここにお知らせします。

大きな病も彼から そのプライドを奪うことは出来ませんでした。

彼は 便意をもよおすと玄関で吠えたのです。その鳴き声が聞こえると我々は玄関扉の鍵をあけ、そして彼は重い腰を上げ、フラフラと庭に出ては便を垂れたのです。

しかし、大きな病は次第に彼から体力を奪いました。

だんだんと食欲を奪い、やがて大きな声で吠える力を奪いました。

それでもある晩 彼はいつになく大きな声で吠えたかと思うと、弱った身体を引き摺るように、下駄箱の下にその身を隠していました。

汚れたクッションに視線を移した私たち家族は気付いてしまいます。

彼は遂に玄関で粗相をしてしまったのです。

かの犬は我々の視線を感じ、か細い息を吐きながら、まるで謝るかの如くこちらにその眼差しを向けるのでした。

「そんな目で訴えかけなくても良いよ。分かっているから」

私から発せられたのは静かな慟哭でした。


もう一つ季節が移ろい

冬になり、再就職先が決まった私は出社の初日、玄関で横たわる かの誇り高い犬に最期の挨拶をしました。彼はわずかに瞳をこちらに向けてくれました。

最期の挨拶のつもりは無かったのですが、結局はその時が最期になってしまったのです。

初出社の日 帰宅すると私がいない間に息を引き取った犬が毛布を掛けられた状態で玄関に横たわり、そこには綺麗な花が添えられていました。

事実は小説よりも奇なり。

その日から私は言葉も話せない犬は生涯最期の日だけは選ぶことが出来るのだと信じる様になりました。


それから10年の歳月が流れ、私の暮らしは一転していました。

再就職してから5年後には結婚し 新居での生活が始まっていましたし、 ほどなく子供二人に恵まれ、毎日がドタバタのコメディかと思うぐらいの賑やかさが私たち夫婦に降り注ぎました。

またたく間に上の娘が4歳半、下の息子が二歳半に成長し、

無口な父とお喋りな母は、すっかり喋れるようになった孫から「じいちゃん ばあちゃん」と呼ばれる 年寄り的な存在になっていました。

実家の庭から かつての犬小屋は撤去され、玄関に漂っていた多少の獣クサさは今はなく、それに合わせて かの犬は昔のアルバムを覗いた時にだけ出てくる過去の存在になっていました。


そう、、

忘れられた存在というよりは、過去の存在になったのです。そして過去の存在というのはとても不思議なモノで普段見えないくせに フとした拍子に ひょっこり顔を覗かせる懐かしさの正体の様なモノでもあったりします。

そう、それは何度でもひょっこり現れます。

今 私はよちよち歩きの息子の歩幅に合わせて散歩をします。自分のスピードではないゆったりとしたペースの散歩は私にかつての仔犬時代の散歩を思い出させます。

懐かしい

ある日こちらがビックリするぐらいのスピードで走り出したりすることもあります。そんな時は追いかけて掴まえます。腕の中で暴れる子供はかつての元気な犬を思い出させます。

懐かしい

そういや、お風呂上がりに逃げ回るのも一緒ですね。

懐かしい

「昔 同じ様な感覚を味わったなー」という具合に”今”を過去と同じ温かさで私は何度でも抱きます。


、、、

それは温かいだけでもないかもしれない。

先日の話ですが4歳半の娘が大泣きした時がありました。

家族で晩ごはんを食べるさなか、娘は席を外しキッチンの方へ向かいました。

「小皿を取りに行く!」と意気揚々でした。

彼女にとって 踏み台を使って、食器棚を開け、小皿を取ったりだとかスプーンを取ったりしてお手伝い出来ることはちょっとした自慢でした。

初めは親が見ている前でしか出来なかったものが、繰り返す内に一人で出来る様になったことが嬉しくて、さらに私達に「一人で良くできましたね」と褒めてもらえることが本当に嬉しくて仕方が無いようでした。

でもその日は上手くいきませんでした。

引き出しが外れてしまい 落下、お皿がたくさん割れてしまったのです。

私たち夫婦は跳び上がるように駆け付け、まずは娘に怪我が無かったことに安心しました。

彼女は初め驚いた様な表情をしていましたが、やがて目に涙を溜め 同じ言葉を何度も繰り返し発しました。

「ごめんなさい。パパとママが見ている前でやれば良かった。」

「パパとママが見ている前でやれば良かった。ごめんなさい」

「パパとママが見ている前でやれば、、ごめんなさい」

踏み台の上に涙が何粒もこぼれ落ちます。

それは私達が初めて見る娘の反応でした。

怒られて泣いたのではない。

悲しくて泣いたのではない。

自責の念で彼女は初めて涙したのです。

「そんな目で訴えかけなくても良いよ。分かっているから」

そのセリフはいつしか発した私の静かな慟哭と同じモノでした。

生きていれば 過去の温かさだけでなく、過去の切なさだって何度でも抱くことになると私は気付かされました。


ただただ 時とその姿形を変え、何度でも私の目の前に広がるいつか見た光景は、私の記憶の奥へと静かに積もり やがて見えなくなっては また浮かび上がるを繰り返し、私と過去(記憶)の境目が ぼやけ、滲み(にじみ)、

私という人格に重みを増すかと思いきや、不思議な事に個人的な感覚で言えば なぜか軽く薄っぺらになっていきます。

いつか見た光景はどれだけの幸せであっても、どれだけの不幸であっても、世界中に転がっています。特別なことは何一つないのです。

そのどれもがちょっと違う時とちょっと違う場所で、私でない誰かが経験しています。

ただ一つだと思い込んでいたその光景は、実は私一人が見た光景ではないことをいつか知ります。全て何気ない普通だったのです。

普通とはいつか誰かが見た光景であります。今の幸せは突然目の前から消えてしまうこともありますが、実はその後 何度でも目の前に現れます。
それはいつか見た光景を何度も抱く行為に似ており、手をのばす限り永遠に機会は訪れます。
そしてそれは生きとし生ける老若男女全ての人に平等です

2018年3月8日の私のツイートより

こんなツイートを投げたこともありました。

“普通”は私だけのモノではありませんので、当然 皆さんのモノでもあります。

ある日 普通の幸せにすら手を伸ばせなくなるほど、臆病になってしまっても、外に視線を移せば それは何回でも巡って来ますので、その時は躊躇せずにパッと掴まえて欲しいと願っての発信でした。


忘れてもらっても構いません。

むしろ それが当然で、読んだ文章や耳にした言葉は時の流れと共に人の日常から薄れていって然るべきです。

ただ忘れた頃に、例えば実生活の営みの中で不意にその言葉を思い出されたなら、また不意にその言葉に沿った行動を貴方が取っていたとしたのなら、それは過去の言葉が何かの奥底から浮かび上がってきた証であり、貴方の脳が思考するよりも早く貴方の歩みを一歩進めてくれます。

言葉は貴方の内側に溶け込めば溶け込む程に貴方からは見えなくなります。内側を覗いても見えないので、その存在を確かめたいのであれば外に向けて何かを発するしかありません。

残酷なほどに何も出てこないのですがそれが大切な事なのだと私は思っています。

見えないですけれども そこには何かが確かにあります

仲 高宏「na工房」の管理人

投稿者プロフィール

主に日曜大工(diy)やハンドメイドに関するお役立ち情報を発信しています。
電動工具の扱いや、木材の加工方法、便利な補助道具の紹介を記事にしています。
最近は「木彫り」や「切り絵」も始めました。

この著者の最新の記事

リンク

スポンサーリンク

おすすめ記事1(技術系)

  1. 単純で強いロープの結び方の一つに"本結び"、別名"スクエア・ノット(米国)"もしくは"リーフ・ノット…
  2. 作業台と補助台
    日曜大工の基本といえば木材の加工作業となるのですが、まずは作業台がなければ始まりません。na工房では…
  3. 絵本棚の上の部分
    前回から絵本棚の製作に取り組んでいますが、今回のdiyテーマは上段の収納部分の自作です。 [c…
  4. 飾り棚側面
    テレビまわりは目立ちますし、出来ればオシャレにしたいですよね? 今回は集成材でテレビボードとそ…
  5. 精密ドライバーセット
    通常のドライバー(ねじ回し)セットと違ってそれほど出番は無いのですが、持っていて良かったなと思う工具…
  6. ストレスなく届きます
    電動ドライバーは便利な工具ですよね?特に長めのビスを打つ時や、打ち込む本数が多い時なんかはその有り難…
  7. トリマーで溝堀
    以前にクランプと木工用ボンドを用いて木材同士を圧着する技法を別記事で紹介しましたが、今回はこの技法と…
  8. センサー付のLED電球
    家庭用のLED照明技術が発達してきて、これは良かったなと感じる商品の一つに“人感センサー付のLED電…

スポンサーリンク

おすすめ記事2(アートワーク系)

  1. 玄関脇のワイヤーネット
    ワイヤーネットって便利ですよね。 ちょっと壁に掛けておくだけで色々楽しめます。ホームセンターや…
  2. たくさんフクロウのマトリョーシカを作りました
    今回は市販のマトリョーシカキットを用いてフクロウモチーフのマトリョーシカを作ったお話しです。結構フク…
  3. 木彫りのすずめ(二羽に増えました)
    前回は木彫りで雀(すずめ)を彫り出しましたが、今回は色塗りの手順を紹介します。 [captio…
  4. 和室の棚(大入れ継ぎで作成)
    皆さまは棚を自作するとしたらどのような材料を用いて作られますか? 例えばホームセンターに行けば…
  5. 今回は“白木のキット(市販品)”を用いたマトリョーシカの作り方を紹介したいと思います。自分だけのオリ…
  6. 切り絵作品「翡翠(かわせみ)」
    以前市販のテキストを使用した切り絵の練習方法を紹介したことがありましたが、いくつか作ると今度は欲が出…
  7. ミニチュア小屋とぽれぽれバイソン
    ミニチュアって良いですよね?今回は市販品のミニチュアにハンドメイドの小屋をコラボさせようという企画で…
  8. フクロウ(羊毛フェルト)完成
    普段は木工ばかり手掛けているna工房ですが、今回は初めて繊維に取り組みます。羊毛フェルト(フェルティ…

リンク

ガーデニングやエッセイ

  1. 赤ちゃんの片目もしくは両目が涙目になりがち、朝起きたときに目ヤニがひどい、結構心配になりますよね。 …
  2. 今年もセミの鳴き声が聴こえてきましたね。 夏の風物詩だといいますが、正直な話どうもあのジィ~ジ…
  3. 今の私の仕事は何なのか?優先順位は何か? よく考えることがあります。悩むというニュアンスではな…
  4. 今回は玄関の収納スペースを飛躍的にアップさせた棚の紹介です。 元々のna工房の玄関先は比較的狭…
  5. 最近ステンレス製のピンチハンガーを購入しました。そして同時に衣類様のステンレスハンガー40本買いまし…

リンク

応援お願いします!

RSSフィード登録できます!

follow us in feedly

back number 100

ページ上部へ戻る